生存遊戯

いや、死亡遊戯って映画有ったでしょう?
だから、それの対義。生きる事を楽しむ。


でも、そんな事出来はしない、と思うのです。
生きる事自体が苦しみの固まりなのだから。
その中に楽しみの光を探して生きていくわけですが。


昨日ESSEさんから食料が届きました。
あの人は「世話焼きだから」と言ってましたが。
何故、顔さえ知らない他人にそんな事出来るのかなぁ・・・。
回線の向こうにいる人がどんな人なのか
そんなの分かるはず無いのに・・・。
私がものすごいろくでなしかも知れないのに。
犯罪者かも知れないのに。
(・・・少なくとも聖者じゃありませんけどね。)
生きてる価値のない屑かも知れないのに。


私はネットにいる人をあまり信じていません。
どうにでも振る舞えるからです。
私のように。
美辞麗句を並べるくらいなら、或る程度会話能力が有れば出来ます。
(すばらしい文章、とかになると話は別になりますが)
私だって、innerchaosや、ここや、掲示板に書き込んでる「人格」が「私」である保証なんてどこにもないのです。
ただ単に「tsx」であるに過ぎないのです。
確かに、書いた人物は「私」なのですから、「私」≒「tsx」と言えなくもないかも知れません。
だけど、もしかすると「tsx acted by 私」なのかも知れないのです。


言いたいのは、「私」=「tsx」である保証なんてどこにもないのに、そう信じていろいろしてくれたESSEさんってすごいなぁ、と思ったのです。
私の死ねない理由が、増えてしまいましたが・・・。